メイヘム101

映画や小説、ゲームや音楽についての備忘録

映画「オアシス:スーパーソニック」の感想

 新型コロナウィルスの拡大の影響で休みの日は基本的に家にいる。映画館にも ひと月ほど行っていない。とは言うものの、特段アウトドアな趣味を持っている訳でもないし、外に飲みに行くという習慣もないため、映画館に行くという以外は日常的には家で映画を見たりゲームをしたり、本を読んだりととあまり変わらない。しかし、給与に影響のない政治家とは違い日銭を稼ぐために外に出る必要はあるのだが。

 先日Amazonプライム・ビデオで映画を見た。「オアシス:スーパーソニック」を。

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 90年代におけるブリットポップ・ムーブメントの代表格Oasisが観客ゼロの無名状態からデビューして僅か3年で25万人を動員したネブワース・ライブに至るまでの経緯を描いたドキュメンタリー映画だ。

 Oasisは個人的に一番好きなバンドだ。ギターを挫折せずに続けられたきっかけの音楽の一つと言っていい。高校の時にDon't Look Back In AngerのMVを見て、貯めたバイト代でEpiphone のセミアコ(ノエルのシグネチャーモデルで水色のモデル)を買って、弾けるようになるまで何度も練習した。ノエル・ギャラガーTOP OF THE POPSに出演したザ・スミスの赤いセミアコを抱えてブライアン・ジョーンズみたいな髪型のジョニー・マーに憧れたと言ったことがあるが、僕にとってはOasisがまさにそれだった。

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 だけど、僕は90年代にOasisの音楽を体験したリアルタイム世代じゃない。初めて聞いたのは、最後のアルバムのDig Out Your Soulが出る前だったが、ネットで調べて聞いた世代だ。そして、この映画は90年代的な雰囲気も含めて、当時の音楽バブルを知るにはとても面白い映画だった。

 Oasisの口の悪さや素行不良さは以前からインタビューなどでも語られていたが、改めて映画で見せられると 気が狂っているとしか思えない。ツアーの移動中に喧嘩騒ぎを起こして強制送還とか、一晩中ドラッグをやった後の演奏でセットリストを間違えて音がバラバラだとか、今のバンドでそんなことをやらかす人間がいたら炎上どころでは済まないだろう。リアムは『それこそがロックンロールだ』と語っていたが、さすがに無理がある気がする。

 映像的にはファンにはお馴染みのライブ映像も使われているが、珍しい映像や写真もあった。ティーンエイジャー時代のリアムやローディの仕事をしていた頃のノエルの写真、94年に日本で初公演した時の映像などは初めて見た(今考えると信じられないくらい小さい箱でやっているのも驚く)。他にもTalk Tonightを書き上げた背景やノエルが歌っている時のリアムの心境など面白いエピソードも多い。

 劇中でノエルは二度とこんな時代は来ないだろうと言っている。 確かに今の時代は90年代とは違い、アイコン化されたスターが存在しない。誰もが知るトム・クルーズみたいな存在は出てきていない。近年ではロバート・ダウニー・Jr.が近い存在だと思うが、人物というよりはアイアンマンという役柄に結びついた印象が強い。

 ただ、それはネットやSNSの発達によって個人主義が進んだ結果に過ぎない。テレビやラジオから流れる流行りの曲に耳を傾ける必要がなくなった。誰もが自由に表現できるようになった。映像でも音楽でも絵でも文字でも何でもだ。その代わりと言ってか共通言語的なヒット曲みたいなものはなくなった。劇中のネブワース公演の中でノエルが観客に向かって「これは歴史だ」と言う場面があるが、確かに260万人がバンドのライブに応募する時代なんてもう二度とないのかもしれない。

バイオハザード RE:3 ストーリークリア後感想

 ※ネタバレあり

 日夜拡大する新型コロナウィルスの影響で休みの日も引き篭もらずにはいられなくなったため、先週末は家でバイオハザード RE:3 をプレイしていた。とりあえず、ストーリーモードをクリアしたので感想をまとめていこうと思う。

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 前作バイオハザード RE:2は個人的にシリーズの中でも一番気に入ったゲームだ。僕はバイオハザードシリーズは好きだが、繰り返しプレイしてタイムを縮めることに関してはあまりやったことがなく、特に5、6辺りは一周だけで お腹一杯になり二週目にトライすることはなかった。

 だが、 RE:2はレオン編、クレア編があり、それぞれ1st、2ndと合計4パターンの遊び方が出来るとは言え、続けざまに何週もした。前回のプレイタイムを更新しようとあまり好きではないタイムアタックも繰り返した。それは社会人となって以降、同じゲームを繰り返しすることが少なくなった自分にとっては珍しいことだった。

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 何故、RE:2にそこまでのめり込んでしまったかと言うと、それはあのゲーム独特の難易度のバランスがシューティングというよりはパズルに近い感覚がすごく好きだったからだ。RE:2はゲーム内で得られる弾薬や回復薬の数が極端に少ない。バイオハザード4以降にあった敵を倒すと弾薬を落とすこともなく、おなじみの武器であるナイフですら消耗品だ。だから、従来の作品に比べてリソースの管理が重要となり、無闇に敵を倒せない。そのため、プレイヤーはここぞという時に銃を使い、それ以外は敵を避けたり、出会さないように回り道をする必要がある。操作は4以降の作品と大差ないが、プレイ感覚は別のゲームを遊んでいる気分になる。

 そういった前作の体験と比べると、今回のRE:3はかなり毛色が違った。というよりも、RE:2がかなり異色な代物だったと思えるほど、はっきり言って普通だった。ラスボスを倒してエンドロールを迎えた時に抱いた感想は「いつものバイオだったな」だ。

 今回は前作でジリ貧になりながらもリソースを上手く回さないとゲームが攻略出来なかったのに対し、弾薬も回復も豊富だ。だから、敵はある程度躱す必要はあっても基本的にはその場の敵を殲滅してから進んでもいい。前作との差別化もあるだろうが、かなりアクティブなゲームになっていた。それが顕著なのが今作の要素の一つである『緊急回避』だ。これはオリジナル版にもあった要素だが、今回のリメイクではタイミング良くボタンを入力することでカウンターが出来るようになっている。そのおかげで、前作よりは敵への対処は簡単になっている。しかし、回避が楽になっているせいか敵の即死攻撃が多い気がした。今回はRE:2でのナイフ反撃も出来なくなって敵に掴まれたら、その時点でダメージが確定してしまう。また、TPS視点のせいで背後からの攻撃は回避が難しい。その結果、初見では36回ほど死んでしまった(難易度はスタンダード)。正直もう少し回避のタイミングを楽にしてもらいたかった。

 僕は RE:2でのタイラントとの追いかけっこ要素がかなり好きだった。暗い警察署の中で響く足音にビクつきながら、扉の向こう側を警戒するのが楽しかった。だから、RE:3のティーザーが公開された時点で追跡者ネメシスとの追いかけっこがオリジナル版からどのように進化しているのか楽しみだった。しかし、今回はその追いかけっこ要素は少なく、ネメシスの扱いは時折立ちはだかるRE:2のG 戦に近かった。追いかけっこ要素も多少はあるが、個人的にはもう少し欲しかった(一度ダウンさせたのに先回りされて通路を塞がれた時はかなり驚いた)。

 ネットでは今作はボリューム不足だと言われている。僕は初見難易度スタンダードで5時間ぐらいだった。RE:2もそのぐらいだったが、主人公が二人いて4通りぐらいの遊び方が出来るのと比べると、確かにボリュームは少ない気がする。今回のリメイクではオリジナル版からオミットしている部分も多い。話の流れをスムーズにするためにはしょうがなかったのかもしれないが、もう少し長くても良かったかもしれない(オリジナル版であった市長の銅像が回転すると中からバッテリーが出てくる謎ギミックが消えていたのは個人的に残念だった)。しかし、やり込み要素は多く、特に無限武器に関してはRE:2よりも取得が楽になっているのは良かった。

 オンラインゲームのバイオハザードレジスタンスの方はまだプレイしていないので、遊んだらまた感想を書こうと思う。

 

備忘録:物欲に負けてジャズマスターを買ってしまった話

 僕はそれなりに持続している趣味の中でギターを弾くことがある。上手くはないし、バンドを組んでいる訳でもない。休みの日にパソコンに繋いで演奏を録音して、音源をネットに上げている程度だ。それぐらいカジュアルに弾いているぐらいだが、それでも長く続けていると定期的にある感情が湧いてくる。『新しい楽器が欲しい』という感情だ。これは上手く下手関係なく、何か道具が必要な趣味を持っている人には誰でも起こる感情だと思う。そしてその結果、自分の部屋には現在、何本もギターやベースが転がっている。だけど、結局何本買ってもその感情は消えることなく、定期的に湧いてくるものなのだが。

 数年前からジャズマスターというギターが欲しかった。90年代のオルタナティブ・ロックバンドにはおなじみのギターでマイ・ブラッディ・ヴァレンタインダイナソーJr.ソニック・ユースなどがよく使っている。

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 その年代の音楽が好きな自分としては前から欲しかったのだが、それなりに値段も高価で、日本製Fenderの物でも新品で10万弱、中古でも7〜8万はする。懐事情が裕福じゃない自分にとっては中々手の出しにくい価格だ。だから、『既にギターは何本も持ってるからな』と諦めていたのだが、ここ数年、ノエル・ギャラガーまでジャズマスターをメインに使い出したのを見ていると、やっぱり欲しい気持ちは消えなかった。

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そして、約2年ほど熟考した結果……

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結局 買ってしまった。物欲とは愚かである。

まぁ、何年も欲しかったものなので後悔はしていないが……中々の出費はやはり痛い。

 一応Fenderジャズマスターだが、2018年から発売している「Player Series」というFenderの中では、一番価格帯の低いモデルだ。メキシコ製で定価は約7万弱、これは中古で購入したので、5万を切るぐらいの価格で購入することが出来た。中古と言っても、このジャズマスターは2019年製でボディに目立った傷もなければ、フレットもピカピカだ。ハードオフで買ったジャンク同様のOrllive製レスポールを修理して使っている身からすると、新品同様のコンディションなのでお得な買い物だった気がする。

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 ジャズマスターおなじみのプリセットスイッチ類は省略されて、ピックアップもシングルではなく、ハムバッカータイプのものが搭載されている。

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 弾いてみた感触としては、ピックアップがハムバッカーなため、やはりパワーがシングルより強く、歪み系のエフェクターと相性が良い。荒々しい面もありつつ、リア側のピックアップをスプリットさせてシングルでの演奏も可能なので、思ったより幅の広い使い方が出来そうだ。

 カッティングを多用する人やオーソドックスなジャズマスターが好みな人には向かないかもしれないが、自分は空間系や歪み系を組み合わせてジャカジャカ弾くのが好きなので、結構気に入った。

  Fenderはこの「Player Series」をエントリーモデル、これから楽器を始める人に向けたシリーズらしいが、価格帯を考えるとオススメしやすいのじゃないだろうかと思う。ネックは握りやすく、エフェクトも良い感じに掛かる。ネットの感想を見ていると、メキシコ製ゆえの作りの粗さが指摘されている。僕は95年製のスタンダードテレキャスターも所有しているが、それと比べてもあまり粗さが分からない。それにこのシリーズはラインナップもストラトテレキャスジャガームスタングと豊富だし、ベースもある。気になる人は手に取ってみて欲しい。

 

 

 

備忘録:半年書いていた小説を何とか書き切った話

 去年の9月頃から空いている時間などを使って、ある賞に応募するために小説を書いていた。少しずつ書き続け、先日ようやく書き終わって締切日当日に何とか郵便局まで出すことが出来た。その前の年も書いていて、その時は『次書く時はもっと余裕を持って完成させよう』と思ったのだが、結局今年もギリギリになってしまった。まぁ、仕事終わった後の数時間や休日だけしか作業出来ないのもあるから仕方ないと言いたいが、ただの言い訳になってしまうだろう。だから、今年も書くなら次こそは余裕を持って……(無限ループ)

 とにかく、何とか終わって肩の力が抜けた。こういう応募は緊張する。特に原稿を直接送る賞の場合は、印刷ミスはないか、抜けているページはないか、と印刷後もチェックが必要になる。それに郵便局に持って行った後も無事に届くだろうか、と現代の郵便システムでは中々ありえないような心配をしてしまう。最近はweb上での応募も多い。自分もいくつかwebでの応募をしたが、そういう場合は一瞬で送れるし、印刷の必要もない。だから、こういう原稿を直接送るのは、2020年となった今では時代遅れなのではという思いもありつつも、印刷し終わったコピー用紙の束を見るとやり切ったという満足感があるのも事実である。

 今回の応募は終わったが、今後も小説を書く習慣というのは自分の中で続いていくと思う。多分これはフルマラソンをやる人の心理と似ている気がする。十数万字も書き切った後のドーパミンが分泌されて沸き起こる達成感は一度味わえば、中毒状態に近い感覚になる。だから、今回も応募してしまった訳だ。もちろん、評価されたり褒められれば嬉しいし、応募する以上いい結果になるのを期待するのは当然だが、書き終わった後の達成感と高まった感情は、既にパソコンに残っている違う小説のプロットを形にすることに意識が向いている。とは言うものの、少し疲れたのも事実なので、しばらくは映画を見たり、ゲームをしたい。もうすぐ楽しみにしていた「バイオハザード RE3」が発売されることだし。

 

フィクションから考える現代のディストピア

バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の2015年も「ブレードランナー」の2019年も今や過去となった。現実にはビフが作った荒廃的な街もレプリカントを殺して回るデッカードも存在しないが、ディストピアの足音は年々近づいている。

 気のせいかもしれないが、それは最近コロナウィルスの騒動で如実にその姿を見せ出した。マスコミの異常な煽動めいた報道に不安に駆られた買い占めや、それを足元に見た法外な転売がその一例と言える。

 だが、パニックになってデマを拡散したり、根拠のない情報で他者を糾弾するのは大きな間違いだ。我々がすべきなのは、こういった状況でも冷静になることだ。生憎、最悪な世界を描いた小説や映画は山ほどある。そして、ディストピアが近づいた今、それらを体に取り込み、考えよう。これからどうすべきなのかを。

 

 

1.「1984年」ジョージ・オーウェル

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 言わずと知れたディストピア代表作。監視社会と全体主義によって統治された地獄の成れの果ての様な世界が描かれている。ジョージ・オーウェルが執筆したのは1948年らしいが、読み返す度に『これ最近書いたんじゃないの?』と錯覚するほど、作中の描写が現実とリンクするところが多い。それを一々取り上げていくと本当にキリがないので例を一つ挙げる。

 作品内の世界で毎日行っている習慣がある。「二分間憎悪」と呼ばれるもので、毎日テレスクリーンと呼ばれるスクリーンに表示される「敵」の顔に向かって二分間、罵詈雑言の嵐を浴びせてスッキリするという行事だ。これは単に国家に対する不満を別の対象に吐き出させる『ガス抜き』的行為なのだが、日本でもこれとそっくりなものを毎日やっている。テレビで著名人の不祥事を糾弾する『ワイドショー』やSNS内での『炎上』はまさにこの「二分間憎悪」を実現した光景と言えよう。

 まさに1984年に作られた映画版があるのだが、その映画内で描写される「二分間憎悪」は、誇張なしに今ネットやテレビで毎日繰り広げられている光景と同じなのだ。気になる方はぜひ見て欲しい。

 それ以外にも「二重思考」「ビッグブラザー」「ニュースピーク」「2+2=5」など明日から使いたいディストピア用語が満載だ。

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2.「すばらしい新世界オルダス・ハクスリー

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 上記の「1984年」で描かれる世界とオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」はまさに対照的な世界だ。老いはなく、貧困も不満もない誰もが満足している『すばらしい世界』だ。だが、それは表面上のもので、不安になった時は「ソーマ」と呼ばれる精神安定剤が必要だったりするし、『全ての人間が幸福』という世界も外側にいる人間から見れば、そのユートピアも狂っていることが分かる。

 ディストピアの描き方というのは大概、『抑圧』や『弾圧』で個人の尊厳を奪うことが多い。しかし、「すばらしい新世界」では逆に『幸福』や『快楽』を突き詰めて個人を弾圧していく。つまり、大多数の人間が幸せに過ごすために、その1パーセントにも満たないマイノリティは『個性』を奪われる世界だ。

 日本でも生活や仕事に対して不満を言うと、炎上しがちだ。『自己責任』という言葉で切り捨てられる。この小説の世界はそれが行くとこまで行った世界と言える。

 数年前に「G型大学/L型大学」という考え方が議論を呼んだ。これは一部のエリート校以外は職業訓練校にすべきという考え方だ。その中に『シェイクスピアより仕事に使える英語を学ぶべきだ』という主張がある。この「すばらしい新世界」でユートピアに馴染めないジョンという青年はシェイクスピアを愛読していて、言葉として引用するが、そのユートピアで暮らす人達にはその魅力が伝わらない。彼らにとっては必要がないからだ。逆にトップにいるエリートはシェイクスピアを嗜んでいたりする。全く笑えない話である。

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3.「2300年未来への旅マイケル・アンダーソン

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 最近、恐ろしいことに人に対して『劣化』や『老害』という言葉を投げかけるのが定着化している。僕はそういった言葉自体に嫌悪感を抱いている。まず、大前提として人は劣化しない。壊れたら部品が交換可能な機械とは違うのだ。そもそも年を取ること自体が当たり前なのに、何か悪いことであるかの様になっている風潮が既にディストピアなのだが、それでも『おっさん』や『BBA』という言葉で他者を揶揄する人が増えている。その根底にあるのは『若いことにしか価値がない』という考え方だろう。そして、この「2300年未来への旅」はそれを戯画化した映画だ。

 この映画の世界は、30歳になると「再生」という名目で殺される世界なのだ。そして、登場人物の大半もそれ自体に疑問を抱いていない。『死ぬと生まれ変われる』と信じ込まされているからだ。主人公のローガンも疑問を抱いていなかったが、いざ自分が殺される側の立場になると怖くて逃げ出してしまう、というストーリーだ。こうして書いていても、あまりSF感がないのは現実でも似た様なことがあるからだろう。

 例えば、女性アイドルの入れ替わりのサイクルもこの映画と似ている。30歳を過ぎて活動している人はあまりいない。対して男性アイドルは40、50歳を過ぎても活動している人がいる。それは『需要がないからだ』という言葉で片付けることもできるが、それが正論として成り立つなら、先ほど書いた『若いことにしか価値がない』が正しいということも認めることになるし、それを女性だけに強要していることになるので、個人的には全く賛同できない。

 『いい歳だから』と言って個人の幅を制限するのは、地獄そのものである(人に迷惑をかける行動などはもちろん別として)。

 

4.「ゼイリブジョン・カーペンター

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 広告というのはもはや日常だ。媒体を問わないなら見ないという日はない。常に何かしらの情報が自然と入ってくる世界に自分たちは生きている。それは便利である一方で、人を洗脳できる劇薬でもある。最近のマスク不足を不安にさせる報道がその一例と言える。この映画はそういった情報の本質を見抜ける様になる話だ。

 主人公のネイダはホームレスの肉体労働者だが、いつかは成功するアメリカンドリームを信じているため、家無し金無しの現状には楽観的な男だ。しかし、ひょんなことからある手に入れたサングラスのせいでその考えが一変してしまう。そのサングラスはかけると本質を見抜くことができる特殊なものだった、という内容だ。あるシーンで彼が女の人がビーチに寝そべっている旅行会社の広告をそのサングラスをかけて見ると、『結婚して子供を産め』というメッセージが隠れているのが見える。何年か前に資生堂のCMが女性蔑視であるとして批判を受けた。程度はあれど、今も広告には人にある価値観を押し付ける傾向が強く残っている。

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 さらに主人公が新聞やテレビをサングラスを通してみると、『考えるな』『消費しろ』『従え』『眠っていろ』といったメッセージが見える。彼らは情報や広告を通して、人を考えることができない『休眠状態』に追いやっていたのだ。そして、そういった洗脳を行っている支配層や富裕層は人間ではなく、『宇宙人』だということが明らかになる。

 以前、「LGBTは生産性がない」という発言をした政治家がいたが、そのようなことを平気で言えるのは支配層にいる人間が我々のことを『同じ人間』として見てないからだろう。そう考えれば、ジョン・カーペンターがこの映画における支配層を『宇宙人』として描いたのも頷ける。

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 残念ながら、この映画に出てくるサングラスは現実には存在しない。だからこそ、我々は常に目を光らせなくてはならない。日常に溢れる大量の情報で溺れさせられ、『眠っている』状態にならないために。 

 

5.「メタルギアソリッド2 サンズ・オブ・リバティ」小島秀夫

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 今やデジタルやネットというのは、自分の体の延長上にあると言っていい。常に世界と繋がることが出来るし、自分が今こうして文章を残している様に誰でも自由に発信することも可能だ。このゲームが発売されたのは2001年。TwitterFacebookYouTubeもない頃だ。しかし、2020年の今振り返ってみると、現実とリンクすることが多く、自分達に警鐘を鳴らされている気がする。本作のクライマックスで主人公に対し、黒幕があることを問いかける。以下を引用するが

『世界のデジタル化は、人の弱さを助長し、それぞれだけに都合の良い「真実」の生成を加速している。社会に満ちる「真実」の山を見てみるがいい』

『君達が「自由」を「行使」した、これが結果だ。争いをさけ、傷つかないようにお互いをかばいあうための詭弁――「政治的正しさ」や「価値相対比」というキレイゴトの名の下に、それぞれの「真実」がただ蓄積されていく』

『かみ合わないのにぶつからない「真実」の数々。誰も否定されないが故に誰も正しくない』

『それが世界を終わらせるのだ。緩やかに』

 先日、新型コロナウィルスの件でデマがネット上で一気に拡散して、トイレットペーパーがドラッグストアを始めとした日本中の店から消えた。その情報自体がデマだとしても、店からトイレットペーパーがなくなるということ自体もまた「真実」である。極端な話、ネット自体がなかったらこんなデマやフェイクニュースなどは与太話として流される可能性が高い。だが、それが10人、100人に共有されるとそれは一つの「真実」になる。

 そして、それらは既に個人ではコントロールできない領域に来ている。ネットの急速な進化のいわば副作用に近いが、正直止めることはできないだろう。止める方法があるとすれば、『言論統制』しかない。この作品でも事件の黒幕は『個』を持ちすぎた人類は情報統制しなければ滅ぶことになると結論づけている。

 いずれにしろ、我々は情報の発信には気を使わなくてはならない。個人であったとしても、一秒後には地球の裏側に伝わるのだから。

 

 

 今回、ディストピアを題材にコンテンツを紹介してみて再認識したが、エンターテイメントとディストピアは非常に相性がいい。媒体を問わずに描けるのもあるが、最大の理由は『我々がフィクションだと認識できる余裕』が大きい。正直、今の世の中お世辞にもいい状況とは言い難いが、もっと最悪な状況になった場合、エンタメはプロパガンダに変わり、表現は偏り、フィクションからの体験を知識のように得ることは難しくなるだろう。だから、ある意味で幸運と言えるし、いい時代に生きていると言える。そして、最悪な世界にならないためにもっと最悪なディストピアを知らなくてはならないのだ。

 

 

 

ゲーム規制条例は必要なのか?

 最近、香川県の「ゲーム規制条例」が話題だ。少し前にも世界保健機関(WHO)が「ゲーム依存」を疾病として認めたりと、2020年になってもゲームに対する偏見に似た嫌悪感というのは強い。フィクションの映画やドラマでも親とコミュニケーション不足の子供の描き方はスマホやゲームに夢中だったりとステレオタイプの性格として描きやすい。「敵」として描くのが便利な存在だ。

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 しかし、1990年の映画「グレムリン2 新・種・誕・生」でテレビでやっているランボーを見ているモグワイのギズモに対して雑貨屋の店主が、『テレビばっかり見てるとバカになるぞ』と言うセリフがある様に、ゲーム以前にも、ある種のカルチャーが悪影響を与えるという刷り込みは昔から強かった(ランボーばかり見ていると違う意味でバカになりそうだが)。

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 だが、この様な条例を設けようとする気持ちも分かる。スマートフォンやパソコンの類は理由もなしに見たりしがちだ。気づいたら二時間経っていたということもざらにある。僕もそうならないために電車に乗ったり映画の待ち時間を潰すために紙の本を持ち歩くことが多い(電子書籍の場合、いつの間にかネットを見てしまうから)。当然、子供になるとそのコントロールの具合が難しくなるだろう。だからと言って、この様に「規制」というルールを大人が決めて、無理やりに子供を従わせたりするのには反対だ。

 まず、こういう「規制」は決める側も基準が曖昧で、子供のためを思って「規制」を推し進めるというのも独善的になりがちだ。1999年の「サウスパーク/無修正映画版」でもそのことがよく描かれている。

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 僕はこういう「規制条例」に対して反射的にディストピアの香りを感じがちだ。管理社会の恐怖を。それを置いとくにしても、言うまでもなく、こういうのは家庭内でルールを決めて対処すればいいだけの話である。人間というのは一人一人タイプが違うし、性格も違う。子供なら尚更だ。一個人として性格を決めてしまう多感な時期にその子自身が持つ興味に対して制限をかける真似はなるべく避けた方がいい。

 当然だが、幼稚園児の手の届く場所に「グランド・セフト・オート」を置いておけとか、12時間ぶっ通しにゲームしていたとしても止めるな、とかそういうことを言っている訳ではない。僕が反対しているのは、あくまで興味を持っていることに対する幅を狭めようとしている「規制」に対してだ。ゲームを条例で「規制」すれば、高校生は自分で判断出来るかもしれないが、小さい子供の場合はゲーム自体を「悪いこと」だと覚えて距離を置くかもしれない。それは「規制」で守るというよりも遠ざけるだけだ。

 僕は子供の頃は本を読むのは苦手だった。学校であった読書時間で強制的に本を読ませられたりするのが苦痛だった。でも、映画やゲームが好きだったので、原作本や映画やゲームの製作者が影響を受けた本を自然と手に取るようになり、読書が好きになった。『気になったら調べる』というのは今でもそれは続いていて、習慣化している。でも、読書が好きになったのは、学校で決められた『本を読みなさい』というルールじゃなく、自分で手に取ったのが要因だ。何がきっかけで違うことが好きになるかは分からない。だから、子供が興味を持つことを「規制」して触れないようにするのは間違いだと思う。

 仮に大人に出来ることがあるとすれば、それは子供が興味を持つ幅を狭めることではなく、その幅を広げることだ。例えば、ゲームをやり過ぎる子供に対して、問題を感じるなら他のものにも興味を持つことを奨めたりすればいい。本を読んだり、映画を見たり、楽器を演奏するのでもいい。『これもいいけど、こっちも楽しいよ』。これぐらいのスタンスで良いのでいいのではないか?

 もちろん、ゲームのやりすぎで視力が低下したとか、学力が低下したとか、そういう問題があれば対応が必要だろう。だが、それはあくまで家庭内の問題だ。自治体が出張る問題じゃない。

スタートレックの変わりゆく未来像

 テレビを見なくなって久しいが、毎週更新されるドラマやコンテンツを楽しみにするのは、Netflixamazon primeビデオになっても変わらない。今、僕が毎週楽しみにしているのは今年の1月から始まった「スタートレック:ピカード」だ。このために、amazon primeに加入したと言っても良いぐらい2018年の8月にピカード役のパトリック・スチュワートが「ジャン=リュック・ピカードが帰ってくる」と宣言した時から心待ちにしていた。

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 とは言っても、僕自身は「スタートレック」との付き合いは「スターウォーズ」と比べると浅い。シリーズを全部見たのも数年前だ。それまで存在は知っていたし、見たいと思っていたが、シリーズの数が膨大な上にどれから見れば良いか分からなかった。それに加えて、当時J・J・エイブラムスが監督したリブート版「スタートレック」を見たとき、派手なアクションは楽しかったが、正直『こんなものか』といった印象を受けて、初期の作品を手に取ろうという気持ちにならなかった。今とは違い、レンタルDVDが主流だったから、配信サービスと違い『試しに見てみるか』というハードルが今よりも高かったのもあると思う。

 だが、数年前にNetflixに加入すると、そこには今までのシリーズ「宇宙大作戦」から「エンタープライズ」まで全てが揃っていた。それに加えて、独占配信している「スタートレック:ディスカバリー」まであるのを見て、僕は「宇宙大作戦」から広大な最後のフロンティアを冒険することにした。

 そして、見事にすっかりハマってしまい、「ヴォイジャー」にたどり着く頃にはヴァルカン式挨拶のハンドサインも自然と出来る様になった。だが、エピソード数が膨大なため(「宇宙大作戦」79話、「新スタートレック」178話、「ディープ・スペース・ナイン」176話、「ヴォイジャー」172話、「エンタープライズ」98話、合計で703話)、これらを見るだけで実に一年以上かかった。それに加えて最新作の「ディスカバリー」や「ピカード」、プラス劇場版に費やした視聴時間を考えると若干気が遠くなる。

 僕がJ・J版のリブートとは違い、なぜここまで「スタートレック」の世界にのめり込んでしまったかというと、多くのファンと同様に夢見心地に近い様な世界観に魅了されてしまったからだ。

 「スタートレック」を一言で説明するなら『牧歌的』や『理想的』といった言葉が似合うだろう。例えば最初の「宇宙大作戦」は1966年に始まったシリーズだが、このシリーズにはニシェル・ニコルズ演じるウフーラという士官がいる。彼女は女性でアフリカ系なのだが、当時は公民権運動があり、その10年ほど前にはエメット・ティルの殺害事件があり、さらにウーマンリブ運動も活発になり出した頃だ。つまり、世相を考えるとありえないことで(それ自体が異常だと思うが)多くの人間がその光景に驚いた。だが、エンタープライズのブリッジにそれを気にする人間はいない。彼らが生きているのは未来でその当時の現在ではなかったからだ。

 その「スタートレック」のダイバーシティ感はその後も、シリーズの根幹と言って良いぐらい重要な要素で、「宇宙大作戦」の約20年後にスタートした「新スタートレック」でも色濃く描かれている。シーズン1の最終回「突然の訪問者(原題The Neutral Zone)」で20世紀末からコールドスリープしていた人間が登場する。彼らは当時では治せない病のため、コールドスリープしていた。そして、目覚めた24世紀ではその病気は瞬時に治せるもので、彼らはすぐに全快するのだが、同時に24世紀という時代に不安を抱えていた。株取引などで生計を立てていた男は貨幣経済がなくなっている事に絶望するし、専業主婦として生きていた女性は性差別がなくなった24世紀で自分がどう生きていけばいいか悩む。そんな彼らはピカードに『何を目的に生きているんだ?』と問いかけると、ピカードは『我々は自己の向上のために生きている』と答える。

 最初にテレビを見なくなったと書いたが、その理由は『見ていると辛くなる』からだ。現在日本のテレビでお茶の間に流れている「エンタメ」の多くは他者を嘲笑するものが多い。容姿や肌の色、人より髪の毛がなかったり、肌の色が濃いだけで人を指差しゲラゲラと笑ったりするのを見て、いつからかそれが辛くなり、僕はテレビを消した。それから、10年近く経つが、たまに親とかが見ているテレビを横目に眺めると、その傾向は今も変わっていない様に見える。「新スタートレック」は1987年に始まったシリーズで、今から30年以上も前の話だが、それらで語られている多くのことは今の我々が見ても古びていない話ばかりだし、逆に今でこそ見るべきものではないかと思う。特に子供や若者は。

 しかし、その『ユートピア』的な世界観も時代を経るとともに変わっていったのも事実だ。2001年から放送を開始した「エンタープライズ」では、911イラク戦争など当時の世相もあってからか、後半はやけに好戦的な話が多く、「スタートレック」の様々なエピソードで語られた『理想的』な面が崩壊していく様に感じた。

 そして、2020年の今年に始まった「スタートレック:ピカード」は旧作品で描かれた『理想的』な世界は鳴りを潜めていたが、そこで描かれているのはまさに今の時代に合った「スタートレック」だった。

 時代は劇場版の「ネメシス」から20年後の24世紀末、宇宙艦隊を退役したピカードは実家のシャトーでワイン造りをしながら引退生活を送っていたが、彼の前に一人の少女が現れて、彼は再び冒険に出ることになる、という物語なのだが、この物語で描かれるピカードは完全に老人だ。かつての指揮官ぶりも衰えて、宇宙艦隊の最高指揮官からも邪険に扱われたりと、(言い方は嫌いだが)『老害』扱いされている。

 それだけじゃなく、今作でピカードとともに宇宙に出るクルーは皆個人に問題を抱えている。アルコールや薬物の中毒だったり、家族関係が悪かったりと様々だ。

 今までの「スタートレック」に登場するクルーはエリートばかりだった。時々、レジナルド・バークレーの様なキャラクターも出てくるが(彼はその後凄まじい成長を見せる)、基本優秀で強靭な人物が多い。実際の宇宙飛行士にもその様な素質が求められる。だが、人間は完璧じゃないし、人生はゲームじゃないから色々上手くいかないこともある。

 近年、名誉負傷章であるパープルハート章をPTSDの退役軍人にも授与するべきだという議論がアメリカでは起こっていて、実際パープルハート章は肉体を負傷した兵士にしか与えられていない。

 以前トランプもPTSD を患った人間に対して批判的な発言をしている。

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 そんなマッチョイズムが根強いアメリカで精神的に問題を抱えた人間達を主人公にドラマを展開するのは、このシリーズが考える新しいダイバーシティの形なのだと思う。

 スティーブン・ピンカー著の「暴力の人類史」の中で『第二次世界大戦以降、大きな争いがない人類は少しずつ良くなってきている』と書かれている。その通り、人類は少しずつだが、良くなってきている(と思いたい)。もちろん問題も多い。人種問題、性差別、精神疾患や貧困。それらを一括りに『自己責任』と責任を転嫁してはいけない。そのためにも我々は「スタートレック」をこれからも見続けなければいけない。あれは世相を映す鏡なのだから。確かにあの作品で描かれた『牧歌的』な未来は時代遅れかもしれない。だが、「新スタートレック」の最終回「永遠への旅(原題All Good Things...)」でライカー副長が『あれは我々の未来じゃない、いくらでも変えることが出来る』と言った様に我々が現在を生きる以上、未来は不確実なのだ。