メイヘム101

映画や小説、ゲームや音楽についての備忘録

フィクションから考える現代のディストピア

バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の2015年も「ブレードランナー」の2019年も今や過去となった。現実にはビフが作った荒廃的な街もレプリカントを殺して回るデッカードも存在しないが、ディストピアの足音は年々近づいている。

 気のせいかもしれないが、それは最近コロナウィルスの騒動で如実にその姿を見せ出した。マスコミの異常な煽動めいた報道に不安に駆られた買い占めや、それを足元に見た法外な転売がその一例と言える。

 だが、パニックになってデマを拡散したり、根拠のない情報で他者を糾弾するのは大きな間違いだ。我々がすべきなのは、こういった状況でも冷静になることだ。生憎、最悪な世界を描いた小説や映画は山ほどある。そして、ディストピアが近づいた今、それらを体に取り込み、考えよう。これからどうすべきなのかを。

 

 

1.「1984年」ジョージ・オーウェル

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 言わずと知れたディストピア代表作。監視社会と全体主義によって統治された地獄の成れの果ての様な世界が描かれている。ジョージ・オーウェルが執筆したのは1948年らしいが、読み返す度に『これ最近書いたんじゃないの?』と錯覚するほど、作中の描写が現実とリンクするところが多い。それを一々取り上げていくと本当にキリがないので例を一つ挙げる。

 作品内の世界で毎日行っている習慣がある。「二分間憎悪」と呼ばれるもので、毎日テレスクリーンと呼ばれるスクリーンに表示される「敵」の顔に向かって二分間、罵詈雑言の嵐を浴びせてスッキリするという行事だ。これは単に国家に対する不満を別の対象に吐き出させる『ガス抜き』的行為なのだが、日本でもこれとそっくりなものを毎日やっている。テレビで著名人の不祥事を糾弾する『ワイドショー』やSNS内での『炎上』はまさにこの「二分間憎悪」を実現した光景と言えよう。

 まさに1984年に作られた映画版があるのだが、その映画内で描写される「二分間憎悪」は、誇張なしに今ネットやテレビで毎日繰り広げられている光景と同じなのだ。気になる方はぜひ見て欲しい。

 それ以外にも「二重思考」「ビッグブラザー」「ニュースピーク」「2+2=5」など明日から使いたいディストピア用語が満載だ。

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2.「すばらしい新世界オルダス・ハクスリー

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 上記の「1984年」で描かれる世界とオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」はまさに対照的な世界だ。老いはなく、貧困も不満もない誰もが満足している『すばらしい世界』だ。だが、それは表面上のもので、不安になった時は「ソーマ」と呼ばれる精神安定剤が必要だったりするし、『全ての人間が幸福』という世界も外側にいる人間から見れば、そのユートピアも狂っていることが分かる。

 ディストピアの描き方というのは大概、『抑圧』や『弾圧』で個人の尊厳を奪うことが多い。しかし、「すばらしい新世界」では逆に『幸福』や『快楽』を突き詰めて個人を弾圧していく。つまり、大多数の人間が幸せに過ごすために、その1パーセントにも満たないマイノリティは『個性』を奪われる世界だ。

 日本でも生活や仕事に対して不満を言うと、炎上しがちだ。『自己責任』という言葉で切り捨てられる。この小説の世界はそれが行くとこまで行った世界と言える。

 数年前に「G型大学/L型大学」という考え方が議論を呼んだ。これは一部のエリート校以外は職業訓練校にすべきという考え方だ。その中に『シェイクスピアより仕事に使える英語を学ぶべきだ』という主張がある。この「すばらしい新世界」でユートピアに馴染めないジョンという青年はシェイクスピアを愛読していて、言葉として引用するが、そのユートピアで暮らす人達にはその魅力が伝わらない。彼らにとっては必要がないからだ。逆にトップにいるエリートはシェイクスピアを嗜んでいたりする。全く笑えない話である。

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3.「2300年未来への旅マイケル・アンダーソン

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 最近、恐ろしいことに人に対して『劣化』や『老害』という言葉を投げかけるのが定着化している。僕はそういった言葉自体に嫌悪感を抱いている。まず、大前提として人は劣化しない。壊れたら部品が交換可能な機械とは違うのだ。そもそも年を取ること自体が当たり前なのに、何か悪いことであるかの様になっている風潮が既にディストピアなのだが、それでも『おっさん』や『BBA』という言葉で他者を揶揄する人が増えている。その根底にあるのは『若いことにしか価値がない』という考え方だろう。そして、この「2300年未来への旅」はそれを戯画化した映画だ。

 この映画の世界は、30歳になると「再生」という名目で殺される世界なのだ。そして、登場人物の大半もそれ自体に疑問を抱いていない。『死ぬと生まれ変われる』と信じ込まされているからだ。主人公のローガンも疑問を抱いていなかったが、いざ自分が殺される側の立場になると怖くて逃げ出してしまう、というストーリーだ。こうして書いていても、あまりSF感がないのは現実でも似た様なことがあるからだろう。

 例えば、女性アイドルの入れ替わりのサイクルもこの映画と似ている。30歳を過ぎて活動している人はあまりいない。対して男性アイドルは40、50歳を過ぎても活動している人がいる。それは『需要がないからだ』という言葉で片付けることもできるが、それが正論として成り立つなら、先ほど書いた『若いことにしか価値がない』が正しいということも認めることになるし、それを女性だけに強要していることになるので、個人的には全く賛同できない。

 『いい歳だから』と言って個人の幅を制限するのは、地獄そのものである(人に迷惑をかける行動などはもちろん別として)。

 

4.「ゼイリブジョン・カーペンター

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 広告というのはもはや日常だ。媒体を問わないなら見ないという日はない。常に何かしらの情報が自然と入ってくる世界に自分たちは生きている。それは便利である一方で、人を洗脳できる劇薬でもある。最近のマスク不足を不安にさせる報道がその一例と言える。この映画はそういった情報の本質を見抜ける様になる話だ。

 主人公のネイダはホームレスの肉体労働者だが、いつかは成功するアメリカンドリームを信じているため、家無し金無しの現状には楽観的な男だ。しかし、ひょんなことからある手に入れたサングラスのせいでその考えが一変してしまう。そのサングラスはかけると本質を見抜くことができる特殊なものだった、という内容だ。あるシーンで彼が女の人がビーチに寝そべっている旅行会社の広告をそのサングラスをかけて見ると、『結婚して子供を産め』というメッセージが隠れているのが見える。何年か前に資生堂のCMが女性蔑視であるとして批判を受けた。程度はあれど、今も広告には人にある価値観を押し付ける傾向が強く残っている。

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 さらに主人公が新聞やテレビをサングラスを通してみると、『考えるな』『消費しろ』『従え』『眠っていろ』といったメッセージが見える。彼らは情報や広告を通して、人を考えることができない『休眠状態』に追いやっていたのだ。そして、そういった洗脳を行っている支配層や富裕層は人間ではなく、『宇宙人』だということが明らかになる。

 以前、「LGBTは生産性がない」という発言をした政治家がいたが、そのようなことを平気で言えるのは支配層にいる人間が我々のことを『同じ人間』として見てないからだろう。そう考えれば、ジョン・カーペンターがこの映画における支配層を『宇宙人』として描いたのも頷ける。

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 残念ながら、この映画に出てくるサングラスは現実には存在しない。だからこそ、我々は常に目を光らせなくてはならない。日常に溢れる大量の情報で溺れさせられ、『眠っている』状態にならないために。 

 

5.「メタルギアソリッド2 サンズ・オブ・リバティ」小島秀夫

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 今やデジタルやネットというのは、自分の体の延長上にあると言っていい。常に世界と繋がることが出来るし、自分が今こうして文章を残している様に誰でも自由に発信することも可能だ。このゲームが発売されたのは2001年。TwitterFacebookYouTubeもない頃だ。しかし、2020年の今振り返ってみると、現実とリンクすることが多く、自分達に警鐘を鳴らされている気がする。本作のクライマックスで主人公に対し、黒幕があることを問いかける。以下を引用するが

『世界のデジタル化は、人の弱さを助長し、それぞれだけに都合の良い「真実」の生成を加速している。社会に満ちる「真実」の山を見てみるがいい』

『君達が「自由」を「行使」した、これが結果だ。争いをさけ、傷つかないようにお互いをかばいあうための詭弁――「政治的正しさ」や「価値相対比」というキレイゴトの名の下に、それぞれの「真実」がただ蓄積されていく』

『かみ合わないのにぶつからない「真実」の数々。誰も否定されないが故に誰も正しくない』

『それが世界を終わらせるのだ。緩やかに』

 先日、新型コロナウィルスの件でデマがネット上で一気に拡散して、トイレットペーパーがドラッグストアを始めとした日本中の店から消えた。その情報自体がデマだとしても、店からトイレットペーパーがなくなるということ自体もまた「真実」である。極端な話、ネット自体がなかったらこんなデマやフェイクニュースなどは与太話として流される可能性が高い。だが、それが10人、100人に共有されるとそれは一つの「真実」になる。

 そして、それらは既に個人ではコントロールできない領域に来ている。ネットの急速な進化のいわば副作用に近いが、正直止めることはできないだろう。止める方法があるとすれば、『言論統制』しかない。この作品でも事件の黒幕は『個』を持ちすぎた人類は情報統制しなければ滅ぶことになると結論づけている。

 いずれにしろ、我々は情報の発信には気を使わなくてはならない。個人であったとしても、一秒後には地球の裏側に伝わるのだから。

 

 

 今回、ディストピアを題材にコンテンツを紹介してみて再認識したが、エンターテイメントとディストピアは非常に相性がいい。媒体を問わずに描けるのもあるが、最大の理由は『我々がフィクションだと認識できる余裕』が大きい。正直、今の世の中お世辞にもいい状況とは言い難いが、もっと最悪な状況になった場合、エンタメはプロパガンダに変わり、表現は偏り、フィクションからの体験を知識のように得ることは難しくなるだろう。だから、ある意味で幸運と言えるし、いい時代に生きていると言える。そして、最悪な世界にならないためにもっと最悪なディストピアを知らなくてはならないのだ。