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『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』感想 ダニエル・クレイグ版ボンド総括(ネタバレ)

 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観た。ダニエル・クレイグが演じる007ことジェームズ・ボンドの最終作。コロナのせいで1年半もの間公開が延期されたせいもあるので期待感が膨らんだ状態で映画館に行った。ダニエル・クレイグは15年も007をやっていたが、その間にハリウッドの脚本家のストライキがあったり、今回のコロナで公開延期があったり(平時なら日本でも大々的にプレミアもあったかもと考えると)、紆余曲折な感じがすごい。それは映画本編も同じだった。

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 自分が007に触れたのは世代的にピアース・ブロスナン版のジェームズ・ボンドが最初だった。正確には64の『ゴールデンアイ』だが。だから、ダニエル・クレイグ版のボンドを見る前には、すでに自分にとって007というのはイケイケのプレイボーイで腕時計からレーザーが出たり、車にミサイルが搭載されていたりという刷り込みがされていた状態だった。彼と対峙する悪役も衛星からビームを出す超兵器を持っているバカみたいな設定。

 そのせいか、最初に『カジノ・ロワイヤル』を観たときは、逆に拍子抜けだった。アクションは泥臭く、車には超兵器もなく、大半は睨み合ってポーカーをして、ジェームズ・ボンド自身も新人設定なためか、一回賭けに負けるわ毒を盛られるわ金玉を拷問されるわで「なんか自分が思ってたのと全然違う!」となったのを覚えている。アクションシーンやカメラワークも当時やってたジェイソン・ボーン3部作の影響が強い。

 そして、その傾向は次回作の『慰めの報酬』でさらに顕著になった。『慰めの報酬』は世界的にも微妙な評価で自分も「なんかパッとしないなぁ」と思っていたところに、4年後の2012年に『スカイフォール』である。

 今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観るにあたって、過去作を復習してから行ったのだが、やはり『スカイフォール』がクレイグボンドシリーズの中でも異様に突出していたと感じた。今も「これが最終回でよかったのでは……」と思ったりしている。

 しかし、あの最終章っぽい作風のせいで2015年の『スペクター』が逆に蛇足っぽく見えたのもある。ダニエル・クレイグ版の007はそれまでのシリーズと違い、一話完結式ではなく全部の話が繋がっているため、どうしても前作と比べてしまう。あと、個人的な趣味では主題歌もRdadioheadのボツになったやつのほうが好きだった(Radioheadが不採用になる選考とはどんな倍率の選考だよと思ってしまう)。

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 そして、満を持しての今作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』だ。観終わったあとの正直な感想は、賛否で言うと否のほうが多くなるほど文句もあるが、それでも最後まで退屈はしなかった。今作はシリーズの中で最も上映時間が長く、2時間40分を超えている。上映前の予告を含めればだいたい3時間だ。それを考えると、観ている間退屈はしなかった。

 先述したとおりダニエル・クレイグ版が演じるジェームズ・ボンドは今までの映画が繋がっている方式なので、以前のシリーズと比べると、最初から「ジェームズ・ボンド」というキャラクターは完成していない。そのせいで暗いと言われがちで自分もそう思うが、『スカイフォール』でショベルカーから電車の車両に飛び移りスーツのカフスを直すところとか、今作で言うと戦闘中にバーの酒を一杯煽るとか、徐々に「ジェームズ・ボンド」になっていく感じはすごくよかった。

 『ノー・タイム・トゥ・ダイ』はダニエル・クレイグの最終作というわけか、卒業式感がすごい。今までの登場人物と人物関係を総括するし、『スカイフォール』と『スペクター』でいなかったフェリックス・ライターも再登場するし、後任の新007もいる。ボンドカーでのチェイスもあり、腕時計もクレイグボンドの中では今までで一番007っぽい秘密兵器が搭載されてる。

 よくよく考えてみれば、そんなに不満もなかった今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』だが、後半--特にラストの場面は今考えてもモヤモヤする。なにがそんなにダメだったのかと言うとネタバレになってしまうが、それは今回のジェームズ・ボンドが映画の最後で「死んでしまう」ことだ。

 近年、長年演じた末に最後に死んで終わりという映画が多すぎる気もする。ハン・ソロルーク・スカイウォーカー、トニー・スターク。別にそういうのが嫌いとは言わないが(『スターウォーズ』のEP7~9以外)、長く付き合った末に待っているのが死んで終了というのはなんだが雑な気もする。

 それに007というキャラクターは「死」というのが似合わないキャラクターでもある。「ジェームズ・ボンド/007」は非常に概念的な存在だ。伊藤計劃が書いた短編で『女王陛下の所有物』という007の二次創作的な話がある。www.hayakawa-online.co.jp

 この小説では、なぜ別々の時代に別々の顔を持つジェームズ・ボンドと呼ばれる同一の男が存在しているのか、その理由が描かれている。実は雛形として保存してあるジェームズ・ボンドの肉体から選ばれた工作員にその人格と精神を移植していた、というものだ。映画における俳優の交代をメタ的に絡ませた話だが、こういった解釈ができるのも「ジェームズ・ボンド/007」が概念的な存在だからだろう。

 しかし、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』、ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドは「概念」ではなく、「個人」だった。新人スパイが成長してやがて時代遅れになり、そのうち自分の家族について考えるようになり……と。そう考えると、映画の最後でキャラクターを殺してしまうのも理解できる。「概念」が「個人」に姿を変えた以上、一度リセットするしか元に戻る手段がないからだ。

 だが、ここからは妄想になるが『ノー・タイム・トゥ・ダイ』のラストは実は死んでないバージョンも脚本とかでは書いてたんじゃないかと思う。映画の終盤でボンドが娘が落としたぬいぐるみを拾うシーンがある。この場面を見て、「実は最後に生きていて娘がぬいぐるみを手に持ってるパターンだな」と考えていたら、そのまま死んで映画が終わってびっくりしたが、たぶん従来のボンドならそうしていただろうし、逆にそうしないならこんな場面は入れないだろう。そのあと絡んできたわけでもなかったからだ。 

 でも、そうはならなかったのはおそらく「概念」からの解放のためだ。ダニエル・クレイグは007就任時にはボロクソに叩かれていた。金髪碧眼で今までの伝統的なボンド象とは違っていたからだ。今はそういうことを言う人はあまりいないが。シリーズの好き嫌いはあるにしろ、あのシュッとしたスーツの着こなしを見ると、自然とボンドっぽいと思ってしまう。

 そして、一方ですごく「個人」としての要素が強いボンドでもある。だから、殺さざるをえなかったのだと思う。次のシリーズに繋げるためには、この我が強いクレイグボンドに決定的な決着をつける必要があったから。その結末が個人的に微妙だったが、それは所詮好き嫌いの範疇にすぎない。

 ひとつだけ、問題があるとすれば、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』で登場した新しい007の扱いだろう。物語の後半、彼女がMに自分の007としてのポジションをボンド中佐に返します、といったセリフがあるが、これは固定概念でダニエル・クレイグが叩かれたように、007というよく考えればただの役職にすぎないものをジェームズ・ボンドという「男のもの」であるイメージを助長しかねないからだ。穿った見方ではあるとわかってはいるが、最近の映画はどれもそう作ってあるので仕方ない。

 このダニエル・クレイグのシリーズで今までの「概念」はかなり崩れたから、次のシリーズでは人種や性別に関係なくボンド役が選ばれるかもしれない。そういったものを「ポリコレ」と一蹴してしまう人もいるかもしれないが、映画で言っていたように007というのはただの数字にすぎないのだ。