メイヘム101

映画や小説、ゲームや音楽についての備忘録

ゲーム規制条例は必要なのか?

 最近、香川県の「ゲーム規制条例」が話題だ。少し前にも世界保健機関(WHO)が「ゲーム依存」を疾病として認めたりと、2020年になってもゲームに対する偏見に似た嫌悪感というのは強い。フィクションの映画やドラマでも親とコミュニケーション不足の子供の描き方はスマホやゲームに夢中だったりとステレオタイプの性格として描きやすい。「敵」として描くのが便利な存在だ。

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 しかし、1990年の映画「グレムリン2 新・種・誕・生」でテレビでやっているランボーを見ているモグワイのギズモに対して雑貨屋の店主が、『テレビばっかり見てるとバカになるぞ』と言うセリフがある様に、ゲーム以前にも、ある種のカルチャーが悪影響を与えるという刷り込みは昔から強かった(ランボーばかり見ていると違う意味でバカになりそうだが)。

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 だが、この様な条例を設けようとする気持ちも分かる。スマートフォンやパソコンの類は理由もなしに見たりしがちだ。気づいたら二時間経っていたということもざらにある。僕もそうならないために電車に乗ったり映画の待ち時間を潰すために紙の本を持ち歩くことが多い(電子書籍の場合、いつの間にかネットを見てしまうから)。当然、子供になるとそのコントロールの具合が難しくなるだろう。だからと言って、この様に「規制」というルールを大人が決めて、無理やりに子供を従わせたりするのには反対だ。

 まず、こういう「規制」は決める側も基準が曖昧で、子供のためを思って「規制」を推し進めるというのも独善的になりがちだ。1999年の「サウスパーク/無修正映画版」でもそのことがよく描かれている。

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 僕はこういう「規制条例」に対して反射的にディストピアの香りを感じがちだ。管理社会の恐怖を。それを置いとくにしても、言うまでもなく、こういうのは家庭内でルールを決めて対処すればいいだけの話である。人間というのは一人一人タイプが違うし、性格も違う。子供なら尚更だ。一個人として性格を決めてしまう多感な時期にその子自身が持つ興味に対して制限をかける真似はなるべく避けた方がいい。

 当然だが、幼稚園児の手の届く場所に「グランド・セフト・オート」を置いておけとか、12時間ぶっ通しにゲームしていたとしても止めるな、とかそういうことを言っている訳ではない。僕が反対しているのは、あくまで興味を持っていることに対する幅を狭めようとしている「規制」に対してだ。ゲームを条例で「規制」すれば、高校生は自分で判断出来るかもしれないが、小さい子供の場合はゲーム自体を「悪いこと」だと覚えて距離を置くかもしれない。それは「規制」で守るというよりも遠ざけるだけだ。

 僕は子供の頃は本を読むのは苦手だった。学校であった読書時間で強制的に本を読ませられたりするのが苦痛だった。でも、映画やゲームが好きだったので、原作本や映画やゲームの製作者が影響を受けた本を自然と手に取るようになり、読書が好きになった。『気になったら調べる』というのは今でもそれは続いていて、習慣化している。でも、読書が好きになったのは、学校で決められた『本を読みなさい』というルールじゃなく、自分で手に取ったのが要因だ。何がきっかけで違うことが好きになるかは分からない。だから、子供が興味を持つことを「規制」して触れないようにするのは間違いだと思う。

 仮に大人に出来ることがあるとすれば、それは子供が興味を持つ幅を狭めることではなく、その幅を広げることだ。例えば、ゲームをやり過ぎる子供に対して、問題を感じるなら他のものにも興味を持つことを奨めたりすればいい。本を読んだり、映画を見たり、楽器を演奏するのでもいい。『これもいいけど、こっちも楽しいよ』。これぐらいのスタンスで良いのでいいのではないか?

 もちろん、ゲームのやりすぎで視力が低下したとか、学力が低下したとか、そういう問題があれば対応が必要だろう。だが、それはあくまで家庭内の問題だ。自治体が出張る問題じゃない。