メイヘム101

映画や小説、ゲームや音楽についての備忘録

アップリンク代表のパワハラ告発問題を見て感じたこと。

 最近、アップリンクパワハラ告発問題がずっと気になっている。

www.huffingtonpost.jp

 

 アップリンクの映画館には行ったことはないが、この会社が配給する映画の中には好きなものもある。特にアレハンドロ・ホドロフスキーの作品を扱ってくれるので、貴重な存在だと思う。だが、それとこの告発されたパワハラは別問題だ。

 自分もパワハラは受けたことがある。罵られ、叩かれ、精神状態が首を吊る直前までいったし、向精神薬が必要にもなった。パワハラを受ける前と後では、別人になってしまったと自分自身でも分かる。だから、被害者の方の文章を読んでいると、胃がキリキリする。

 この報道が出てから、ネット上で「(問題が解決するまで)アップリンクには行かない」という言葉も出ている。それに対して、「映画に罪はない」とか「映画文化が絶えてしまう」という反対意見も出ている。自分は行ったことはないし、この映画館がどんな場所かは知らないが、確かにこんな胸糞悪いニュースを聞いたら、行く気がしなくなる。先鋭的な表現を求める割には、何とも旧態然とした世界かと感じる。今は昭和なんかとっくに通り越して令和の時代だ(それでも遅すぎる気もするが)。ボブ・ディランが「時代は変わる」と歌って57年、あと5年もすれば21世紀も4分の1が終わる。なのに、こんな人権侵害問題が起きるのがそもそも狂っているのだ。

 パワハラ問題が浮上すると、決まって「この程度のことでパワハラ?」とのたまう人間が出てくるが、人間の尊厳を奪い、精神的に追い詰めるのはCIAも拷問でやっていることだ。「この程度のこと」で人が苦しみ、別人のように変わってしまったり、死んでしまう可能性は充分にある。パワハラに耐えた人は強いわけではない。「たまたま」肉体や心に支障が出なかっただけだ。そして、パワハラで潰された人は弱いわけではない。「たまたま」耐えられた側の大きな声によって、声が上げられなかっただけだ。

www.afpbb.com

 はっきり言ってしまえば映画のようなミームは絶えることはない。たとえ潰れてしまったとしても、そもそも形があってないようなものだから、いくらでも再建は可能だ。お金がかかるにしても、立て直すことは可能だ。だが、人間の命は違う。いくらお金をかけようが、死んでしまえば終わりだし、パワハラを受けたことで変わってしまった人格は元に戻ることは絶対にない。回復はするにしても元通りになることは不可能だ。ネット上でも「映画愛」のためにアップリンクの存続を望む声が既に上がっているが、仮にも映画に対して「愛」があるのなら、被害者の声を黙って聞くのが先じゃないのかと思う。

 この問題がこれから映画業界の中で拡大して行かずに、うやむやになっていくとしたら失望しかない。先月、検察庁法改正案に対して、映画界からも憲法違反だと声が上がったのを見ている。それなら、同じ憲法で保障されている基本的人権も守るべきではないか?それとも、芸術は自由だから、いくら他者を踏みにじったとしても問題ないと言うのだろうか。確かに表現は自由だ。映画芸術には命をかけるのも時には必要なのかもしれない。だが、それはパワハラを容認する免罪符ではないし、映画に「個人の尊厳」を踏みにじる権利はない。もし、「映画愛」ゆえの暴走などと言ってしまうのなら、それこそ映画に対する「愛」もないし、自分自身が映画を踏みにじっていることになる。

 これは一企業としての代表としての責任だ。芸術も映画も関係ないし、アナログ人間や職人気質、エキセントリックなどの言葉は被害者に対するセカンドレイプにしか繋がらない。それに対して「No!」と発言して不買運動する人を責めることも出来ない。誰も暴力が続いていく中で映画なんか観たくないからだ。そして、それは浅井氏が招いたことだ。 

 もちろん、映画館の存続を望む声が間違っていると言っているわけではない。順番が違うと言っているのだ。現在、コロナ禍でミニシアターの状況が悪くなる中で声を上げるのは、相当な覚悟が必要だったはずだ。世間から叩かれる覚悟もしたと思う。だからこそ、今は彼らの話を聞く時であり、自分達に出来るのはミニシアターの存続の心配ではなく、被害者の方が声を上げやすい世の中にすることであり、こんなことがまかり通る世の中を否定することしかない。映画館が潰れることへの心配や観たい映画が公開されなくなるなどの問題はこの際後回しにすべきなのだ。そういった言葉が今までパワハラ問題を縮小させて彼らを苦しめてきたのだから。