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『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』感想 ダニエル・クレイグ版ボンド総括(ネタバレ)

 『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観た。ダニエル・クレイグが演じる007ことジェームズ・ボンドの最終作。コロナのせいで1年半もの間公開が延期されたせいもあるので期待感が膨らんだ状態で映画館に行った。ダニエル・クレイグは15年も007をやっていたが、その間にハリウッドの脚本家のストライキがあったり、今回のコロナで公開延期があったり(平時なら日本でも大々的にプレミアもあったかもと考えると)、紆余曲折な感じがすごい。それは映画本編も同じだった。

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 自分が007に触れたのは世代的にピアース・ブロスナン版のジェームズ・ボンドが最初だった。正確には64の『ゴールデンアイ』だが。だから、ダニエル・クレイグ版のボンドを見る前には、すでに自分にとって007というのはイケイケのプレイボーイで腕時計からレーザーが出たり、車にミサイルが搭載されていたりという刷り込みがされていた状態だった。彼と対峙する悪役も衛星からビームを出す超兵器を持っているバカみたいな設定。

 そのせいか、最初に『カジノ・ロワイヤル』を観たときは、逆に拍子抜けだった。アクションは泥臭く、車には超兵器もなく、大半は睨み合ってポーカーをして、ジェームズ・ボンド自身も新人設定なためか、一回賭けに負けるわ毒を盛られるわ金玉を拷問されるわで「なんか自分が思ってたのと全然違う!」となったのを覚えている。アクションシーンやカメラワークも当時やってたジェイソン・ボーン3部作の影響が強い。

 そして、その傾向は次回作の『慰めの報酬』でさらに顕著になった。『慰めの報酬』は世界的にも微妙な評価で自分も「なんかパッとしないなぁ」と思っていたところに、4年後の2012年に『スカイフォール』である。

 今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観るにあたって、過去作を復習してから行ったのだが、やはり『スカイフォール』がクレイグボンドシリーズの中でも異様に突出していたと感じた。今も「これが最終回でよかったのでは……」と思ったりしている。

 しかし、あの最終章っぽい作風のせいで2015年の『スペクター』が逆に蛇足っぽく見えたのもある。ダニエル・クレイグ版の007はそれまでのシリーズと違い、一話完結式ではなく全部の話が繋がっているため、どうしても前作と比べてしまう。あと、個人的な趣味では主題歌もRdadioheadのボツになったやつのほうが好きだった(Radioheadが不採用になる選考とはどんな倍率の選考だよと思ってしまう)。

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 そして、満を持しての今作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』だ。観終わったあとの正直な感想は、賛否で言うと否のほうが多くなるほど文句もあるが、それでも最後まで退屈はしなかった。今作はシリーズの中で最も上映時間が長く、2時間40分を超えている。上映前の予告を含めればだいたい3時間だ。それを考えると、観ている間退屈はしなかった。

 先述したとおりダニエル・クレイグ版が演じるジェームズ・ボンドは今までの映画が繋がっている方式なので、以前のシリーズと比べると、最初から「ジェームズ・ボンド」というキャラクターは完成していない。そのせいで暗いと言われがちで自分もそう思うが、『スカイフォール』でショベルカーから電車の車両に飛び移りスーツのカフスを直すところとか、今作で言うと戦闘中にバーの酒を一杯煽るとか、徐々に「ジェームズ・ボンド」になっていく感じはすごくよかった。

 『ノー・タイム・トゥ・ダイ』はダニエル・クレイグの最終作というわけか、卒業式感がすごい。今までの登場人物と人物関係を総括するし、『スカイフォール』と『スペクター』でいなかったフェリックス・ライターも再登場するし、後任の新007もいる。ボンドカーでのチェイスもあり、腕時計もクレイグボンドの中では今までで一番007っぽい秘密兵器が搭載されてる。

 よくよく考えてみれば、そんなに不満もなかった今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』だが、後半--特にラストの場面は今考えてもモヤモヤする。なにがそんなにダメだったのかと言うとネタバレになってしまうが、それは今回のジェームズ・ボンドが映画の最後で「死んでしまう」ことだ。

 近年、長年演じた末に最後に死んで終わりという映画が多すぎる気もする。ハン・ソロルーク・スカイウォーカー、トニー・スターク。別にそういうのが嫌いとは言わないが(『スターウォーズ』のEP7~9以外)、長く付き合った末に待っているのが死んで終了というのはなんだが雑な気もする。

 それに007というキャラクターは「死」というのが似合わないキャラクターでもある。「ジェームズ・ボンド/007」は非常に概念的な存在だ。伊藤計劃が書いた短編で『女王陛下の所有物』という007の二次創作的な話がある。www.hayakawa-online.co.jp

 この小説では、なぜ別々の時代に別々の顔を持つジェームズ・ボンドと呼ばれる同一の男が存在しているのか、その理由が描かれている。実は雛形として保存してあるジェームズ・ボンドの肉体から選ばれた工作員にその人格と精神を移植していた、というものだ。映画における俳優の交代をメタ的に絡ませた話だが、こういった解釈ができるのも「ジェームズ・ボンド/007」が概念的な存在だからだろう。

 しかし、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』、ダニエル・クレイグジェームズ・ボンドは「概念」ではなく、「個人」だった。新人スパイが成長してやがて時代遅れになり、そのうち自分の家族について考えるようになり……と。そう考えると、映画の最後でキャラクターを殺してしまうのも理解できる。「概念」が「個人」に姿を変えた以上、一度リセットするしか元に戻る手段がないからだ。

 だが、ここからは妄想になるが『ノー・タイム・トゥ・ダイ』のラストは実は死んでないバージョンも脚本とかでは書いてたんじゃないかと思う。映画の終盤でボンドが娘が落としたぬいぐるみを拾うシーンがある。この場面を見て、「実は最後に生きていて娘がぬいぐるみを手に持ってるパターンだな」と考えていたら、そのまま死んで映画が終わってびっくりしたが、たぶん従来のボンドならそうしていただろうし、逆にそうしないならこんな場面は入れないだろう。そのあと絡んできたわけでもなかったからだ。 

 でも、そうはならなかったのはおそらく「概念」からの解放のためだ。ダニエル・クレイグは007就任時にはボロクソに叩かれていた。金髪碧眼で今までの伝統的なボンド象とは違っていたからだ。今はそういうことを言う人はあまりいないが。シリーズの好き嫌いはあるにしろ、あのシュッとしたスーツの着こなしを見ると、自然とボンドっぽいと思ってしまう。

 そして、一方ですごく「個人」としての要素が強いボンドでもある。だから、殺さざるをえなかったのだと思う。次のシリーズに繋げるためには、この我が強いクレイグボンドに決定的な決着をつける必要があったから。その結末が個人的に微妙だったが、それは所詮好き嫌いの範疇にすぎない。

 ひとつだけ、問題があるとすれば、『ノー・タイム・トゥ・ダイ』で登場した新しい007の扱いだろう。物語の後半、彼女がMに自分の007としてのポジションをボンド中佐に返します、といったセリフがあるが、これは固定概念でダニエル・クレイグが叩かれたように、007というよく考えればただの役職にすぎないものをジェームズ・ボンドという「男のもの」であるイメージを助長しかねないからだ。穿った見方ではあるとわかってはいるが、最近の映画はどれもそう作ってあるので仕方ない。

 このダニエル・クレイグのシリーズで今までの「概念」はかなり崩れたから、次のシリーズでは人種や性別に関係なくボンド役が選ばれるかもしれない。そういったものを「ポリコレ」と一蹴してしまう人もいるかもしれないが、映画で言っていたように007というのはただの数字にすぎないのだ。

『ザ・スーサイド・スクワッド』の感想

 『ザ・スーサイド・スクワッド』は予告を見た時から、「コレ前にも見た!」という既視感が拭えなかった。『スパイダーマン』と『アメイジングスパイダーマン』だったり、やり直しの間隔が狭いと言えばここ数年の『ターミネーター』もそうだ。最近のバッグバジェットの超大作のサイクルが早すぎるとは言え、さすがに節操が無さ過ぎるんじゃ……とは正直思ったりもしている。特に毎回映画館に行く身としては。

 だけど、それでも観に行ってしまうのは今回の監督がジェームズ・ガンというところだろう。ディズニーにクビにされた直後に声をかけるワーナー側は狡猾な気もするが、でも同時におおらかな気もする。序盤のワーナープレゼンツのロゴが出るあたりとかディズニーだと絶対にやらせてくれなさそうだ。だが、それも最初から好きにやらせたというか前作の『スーサイド・スクワッド』の失敗もあるのだろうが、まぁそっちのほうが正解だと思う。『スターウォーズ』のスピンオフみたいに新規気鋭な監督を起用した割には安パイで無味無臭なものが完成したのを見ると特に。

 だけど、単に不謹慎グロなヘンテコ映画かと思えば、根底にはちゃんとヒーロー映画としての王道だし、泣けるところもある。特に終盤ブラッドスポートの行動をテレビで見ていた娘が「あ、お父さん」と言うところが泣ける。

 まぁ、悪党なのに全然悪い人じゃないじゃないか、という意見もわかるが、DCはよく考えるとバットマンも十分狂っているという感じなので、個人的にはあまり気にならない。キング・シャークは特に絶対自分がなんで刑務所に入ってるのかすらわかってなさそうで、そこもまたかわいい。キング・シャークが水の中で宇宙クラゲみたいなのに噛まれるシーンは本当に最高だ。普通の映画ならサメは噛みつく側なのに油断してまんまと噛まれてしまうのはポンコツすぎてかわいい。

 人が不謹慎に無駄にバタバタと死んだりするが、それは描写されてないがワイルドスピードも同じだと思うので、それを考えるとグロ描写が苦手という人以外には誰にでも薦められる映画だ。アクションは面白いし、笑えるし泣けるし、おまけにネズミやサメといった動物もかわいいし、いいところしかない。最高ではないか。

小説感想『地上最後の刑事』、『カウントダウン・シティ』、『世界の終わりの七日間』三部作

 「SF+警察」ものというのは1ジャンルとして大好物なものだ。『ロボコップ』、『ブレードランナー』、『デモリションマン』、『マイノリティ・リポート』だったりと。そういうジャンルなだけでついついチェックしてしまう。そして、今回面白い三部作の小説を見つけてしまったので感想を残しておきたい。

 ベン・H・ウィンタース作の『地上最後の刑事』からなる三部作だ。

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 物語は至ってシンプルで、半年後に地球に小惑星が落ちてきて人類が滅亡するという世界で主人公の新人刑事がマクドナルドで首吊り自殺を図った男に他殺の疑いをかけて殺人事件として捜査していくという話だ。

 地球に小惑星が落ちる、という話はそれこそ手垢がつくほど見ている気がする。それこそ最近も『グリーンランド』があった。さらに、ポスト・アポカリプスものを含めれば数え切れないほどある。だからこそと言っていいのか、逆にあんまり印象に残るものも少ない。

 ただ、この『地上最後の刑事』が面白いのは「小惑星が地球に落ちる」といった脅威が目に見えないことだ。脅威自体は皆、ニュース映像やCG再現したネット動画でわかってはいるのだが、落ちてくるのは半年後で空を見上げても当然目には見えない。しかし、パニックや生きることに失望した人々は仕事を辞めて、家族を捨てて家を出たりする。自分がやり残したリストを埋めるために。そして、仕事をする人がいなくなると、インフラが止まり、ネットが使えなくなり、電気が消えて、最後には暴動が起きる。主人公をはじめとして、パニックに陥らず日常を過ごそうとする人も存在する。スーツを着て仕事に行ったり、食堂をいつも通り営業したりと。だが、波のような倫理の崩壊と半年後には絶対に死ぬという未来への希望のなさでそんな日常もだんだんと消えていく。自分が冷静を保とうとしても、周りがパニックになるせいで胸がソワソワするというのはこの1年ちょっとのあいだですごくリアルに感じてしまうようになった。

 主人公のヘンリー・パレスという刑事も非常に魅力的だ。彼は新人で(皆が仕事を辞め、人員不足のせいで昇格した)経験も浅いのだが、社会が崩壊しようとしても法と秩序を重んじ任務を果たそうとする。同僚も未来はなく事件を解決することに意味はないと考えているが、それでも彼はそれが人を殺していい理由になるはずがないと自身の正義もはっきりしている。

 SFというよりは小説全体としてはノワール、ハードボイルドものだ。SF、ポスト・アポカリプス要素は二作目の『カウントダウン・シティ』以降が強くなる。『マッドマックス2』みたいに犬が相棒になるし(かわいい小型犬だが)。

 この小説は3作通して全体的に展開が地味だ。政府の地下シェルターが出てくるわけでも、隕石落下を食い止めるための宇宙ロケットが登場するわけでもない。話も片田舎での殺人事件の捜査だったり、陰謀論を信じ込んでレジスタンス行為に走る妹の目を覚まさせようとしたり、ネットフリックスで実写化でもしたりしてもいまいち盛り上がりそうにない場面もあるが、常に展開が気になりずっと読み進めてしまった。

 個人的には「半年後に世界が終わる」という設定がすごく好きで、今日明日の話じゃないから、テンポのいいディザスター映画のような「次の日スーパーに行ったら暴徒が占領してる」とかではなく、日常は続いて馴染みの店に通って世間話をする。でも、ゆるやかに終末が近づいてそんな生活も崩壊していく、といった感じは次々とジェットコースターのような展開を用意しておかなければいけない二時間の映画だったら表現できない気もする。「心温まる」とか「後味がいい」みたいな、そういった話ではないが、どこか心に残る小説だった。

『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』を読んで、『わたしは、ダニエル・ブレイク』を見たら心底辛くなった。

 前から読みたかった『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』を読んだ。

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 この本はイギリスのジャーナリスト、ジェームズ・ブラッドワース氏が最低賃金の仕事で働き、現在の労働者階級の生活とイギリスの問題を綴った職場潜入記録だ。仕事はアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーのドライバー、の4つの仕事のことが書かれているが、ページをめくるごとに胃が痛くなってきた。特にアマゾンでの仕事が特段酷く感じる。昼食をまともに取る時間もなく、トイレに行く時間もほとんどないので、そこらへんに用を足したペットボトルが置いてあることもある、と本当に21世紀かと疑いたくなる。

 2008年のサブプライム問題による金融危機以来、イギリスでは『ゼロ時間契約』や『ギグ・エコノミー』と呼ばれる働き方が急速に増えている。日本で言うところの非正規雇用や人材派遣の働き方だ。企業側はあなた自身が個人経営者だと言い「自由な働き方」や「柔軟なスタイル」を強調するが、そんなものは詭弁で当たり前のように労働者は磨耗していき、使い捨てられる。

 こういう悲惨な状況を訴えると、日本でもそうだが、「生活を改めろ」とか「郊外に引っ越せ」という人間が出てくる。しかし、この本でも書かれているが、まず過酷な労働にはある種の『緩和剤』が必要になり、その結果、酒やジャンクフードを食べたり、ギャンブルに熱中したりする。これは非常に分かるというか、人によってはそれがアルコールになったり、タバコにもなったりするのだろうが、結局は誰に取っても何らかの『緩和剤』が必要になるのだ。そして、この本には仮に引っ越したところで、 郊外は郊外で仕事がないことが書かれている。日本でも貧困を訴えると『引っ越せ』論がまず出てくるが、人口が都心に集中している以上、郊外の仕事は少なくなる。それに最低賃金も違う。東京で約1000円、県によって低いところは800円を切っている。アマゾンでブルーレイを買ってもどこに住んでようが値段は同じなのに。それに加えて、郊外は都心ほど交通インフラが発達してないので、車が必要不可欠になることが多い。その車の税金や維持費を計算すると、どこに住んでようが必要最低限のお金はそんなに変わらない気がする。

 そして、最近は『自己責任論』と呼ばれるように、この状況に陥ったのはこいつ自身の責任であり、社会のせいにするのは間違いだという風潮があるが、この本を読むにイギリスの労働者がこういう状況に陥ったのは、サッチャー政権の民営化による労働者の失業、そして2008年の金融危機以降、増加した『ゼロ時間契約』と『ギグ・エコノミー』などの搾取的なシステムが大きいのは明らかだし、その結果が2016年のブレグジットに繋がってるのではないかと考えてしまう。

 

 この本を読んだすぐ後にNetflixである映画を見た。それは『わたしは、ダニエル・ブレイク』という映画だ。ケン・ローチが監督した映画で、まさに『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』で書かれている内容と重なる映画だった。

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 主人公のダニエル・ブレイクは心臓を悪くして医者に働くことを止められているのにも関わらず、生活保護は貰えず役所は彼に仕事をするように言うが、心臓を悪くしているのに仕事が見つかるはずもなく、役所のせいであちこちたらい回しにされる。彼と知り合うシングルマザーのケイティもロンドンから郊外に越してきたものの、仕事は無く、食べ物や生理用品すらまともに買えない。そんな彼らを国や役所は助けもしない。

 こういった地獄のような状況を対岸の火事としては見られない。自分も鬱とヘルニアのせいで一年間殆ど動けなかった時期があったが、その時は税金や年金の支払いにかなり苦労した。今年にしても、新型コロナウィルスの影響で仕事が減ったり失業した人も多い。そういったコントロール不能な事態に対処できるのは「感謝・絆・敬意」でないことは明らかだ。もちろんその考え方自体は否定しない。だが、自己責任を押し付けた結果の貧困の前では、ほぼ無力であることは間違いない。

映画「ランボー ラスト・ブラッド」の感想

※本当はこの感想は6月に書こうと思っていたが、暑い中マスクした状態で毎日労働していたら気力がなくなり、いつのまにか9月になってしまった。 

 

 先日(6月)、3、4ヶ月振りに映画館に行ってきた。営業再開しているとはいえ、観たい映画や大作映画は軒並み公開延期しているのでそんなに観たい映画も今はない。それ以上にマスクしたまま、二時間も映画を観るのは正直しんどい。だけど、今回観た「ランボー ラスト・ブラッド」は別物というか、スタローンは別腹だ。重い足取りも軽くなる。

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 あらすじは前作「ランボー最後の戦場」のラストで実家に帰ったランボーさんが農場を継ぎながら、遭難した人を助けたり同居人の孫娘ガブリエラを自分の子供のように可愛がったりと、普通の生活を送っていたが、やっぱり過去の記憶に苛まれていた。そして、ガブリエラは自分を捨てた父親に会いにメキシコに向かうが、人身売買組織に拉致されてしまう。

 正直、予告を見た時点でランボーに絡んだメキシコヤクザがどういう目に遭うかは分かるし、プロットも『コマンドー』にある通り、「何度も見たよ」と言いたくなるものだが、描写としてギョッとするものがあった。

 それはこの映画を観た人なら誰もが語りたくなる『ランボートンネル』のことだ。前作『ランボー 最後の戦場』のラストでようやく実家に帰ったランボーは平穏な日々を手に入れていると勝手に思っていた。だが、そんなことはなく、彼は屋根の家で眠ることが出来ず、毎日地下で寝泊まりして、爆音でドアーズをかけながら延々と掘り進めたトンネルをチェックしている。その度に昔の仲間の声が延々と聞こえてくる、というのが映画の冒頭に来る。要するに「何も終わっちゃいません!」という話だ

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 この『トンネル』の描写はかなり大仰ではあると思うが、描写としてかなり狂っていいて、面白くもある。それにこの場面があることで前作で終わった話なんじゃないの? という感情が観ている側は消える、要は当事者にとっては進行形の話であるということ。それでも他者(ガブリエラ)を受け入れようと努力しているのを台詞で説明しないのはさすがスタローンだと思う。

 そして、最後は彼の心の中を象徴する『トンネル』で怒りが爆発する、というのはシンプルだが、話は一貫していて分かりやすい。大爆発や大虐殺が描かれても、あれは家の敷地内だし、馬は怪我しないように逃すという配慮がされているので、気が利いてる。心がモヤっとした時にちょうどいい映画だ。

 

アップリンク代表のパワハラ告発問題を見て感じたこと。

 最近、アップリンクパワハラ告発問題がずっと気になっている。

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 アップリンクの映画館には行ったことはないが、この会社が配給する映画の中には好きなものもある。特にアレハンドロ・ホドロフスキーの作品を扱ってくれるので、貴重な存在だと思う。だが、それとこの告発されたパワハラは別問題だ。

 自分もパワハラは受けたことがある。罵られ、叩かれ、精神状態が首を吊る直前までいったし、向精神薬が必要にもなった。パワハラを受ける前と後では、別人になってしまったと自分自身でも分かる。だから、被害者の方の文章を読んでいると、胃がキリキリする。

 この報道が出てから、ネット上で「(問題が解決するまで)アップリンクには行かない」という言葉も出ている。それに対して、「映画に罪はない」とか「映画文化が絶えてしまう」という反対意見も出ている。自分は行ったことはないし、この映画館がどんな場所かは知らないが、確かにこんな胸糞悪いニュースを聞いたら、行く気がしなくなる。先鋭的な表現を求める割には、何とも旧態然とした世界かと感じる。今は昭和なんかとっくに通り越して令和の時代だ(それでも遅すぎる気もするが)。ボブ・ディランが「時代は変わる」と歌って57年、あと5年もすれば21世紀も4分の1が終わる。なのに、こんな人権侵害問題が起きるのがそもそも狂っているのだ。

 パワハラ問題が浮上すると、決まって「この程度のことでパワハラ?」とのたまう人間が出てくるが、人間の尊厳を奪い、精神的に追い詰めるのはCIAも拷問でやっていることだ。「この程度のこと」で人が苦しみ、別人のように変わってしまったり、死んでしまう可能性は充分にある。パワハラに耐えた人は強いわけではない。「たまたま」肉体や心に支障が出なかっただけだ。そして、パワハラで潰された人は弱いわけではない。「たまたま」耐えられた側の大きな声によって、声が上げられなかっただけだ。

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 はっきり言ってしまえば映画のようなミームは絶えることはない。たとえ潰れてしまったとしても、そもそも形があってないようなものだから、いくらでも再建は可能だ。お金がかかるにしても、立て直すことは可能だ。だが、人間の命は違う。いくらお金をかけようが、死んでしまえば終わりだし、パワハラを受けたことで変わってしまった人格は元に戻ることは絶対にない。回復はするにしても元通りになることは不可能だ。ネット上でも「映画愛」のためにアップリンクの存続を望む声が既に上がっているが、仮にも映画に対して「愛」があるのなら、被害者の声を黙って聞くのが先じゃないのかと思う。

 この問題がこれから映画業界の中で拡大して行かずに、うやむやになっていくとしたら失望しかない。先月、検察庁法改正案に対して、映画界からも憲法違反だと声が上がったのを見ている。それなら、同じ憲法で保障されている基本的人権も守るべきではないか?それとも、芸術は自由だから、いくら他者を踏みにじったとしても問題ないと言うのだろうか。確かに表現は自由だ。映画芸術には命をかけるのも時には必要なのかもしれない。だが、それはパワハラを容認する免罪符ではないし、映画に「個人の尊厳」を踏みにじる権利はない。もし、「映画愛」ゆえの暴走などと言ってしまうのなら、それこそ映画に対する「愛」もないし、自分自身が映画を踏みにじっていることになる。

 これは一企業としての代表としての責任だ。芸術も映画も関係ないし、アナログ人間や職人気質、エキセントリックなどの言葉は被害者に対するセカンドレイプにしか繋がらない。それに対して「No!」と発言して不買運動する人を責めることも出来ない。誰も暴力が続いていく中で映画なんか観たくないからだ。そして、それは浅井氏が招いたことだ。 

 もちろん、映画館の存続を望む声が間違っていると言っているわけではない。順番が違うと言っているのだ。現在、コロナ禍でミニシアターの状況が悪くなる中で声を上げるのは、相当な覚悟が必要だったはずだ。世間から叩かれる覚悟もしたと思う。だからこそ、今は彼らの話を聞く時であり、自分達に出来るのはミニシアターの存続の心配ではなく、被害者の方が声を上げやすい世の中にすることであり、こんなことがまかり通る世の中を否定することしかない。映画館が潰れることへの心配や観たい映画が公開されなくなるなどの問題はこの際後回しにすべきなのだ。そういった言葉が今までパワハラ問題を縮小させて彼らを苦しめてきたのだから。

 

 

『攻殻機動隊 SAC_2045』を全話見た感想。

 先日、Netflixで「攻殻機動隊 SAC_2045」を見た。24分弱で全12話だから5時間もなかったから、サクッと見れた。だから、今回は全話見た感想を書いていこうと思う。

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 いまいちパッとしない「攻殻機動隊 ARISE」と、観終わった後は北野武の荒巻しか記憶に残らなかった「ゴースト・イン・ザ・シェル」を経て数年、Netflixのオリジナルコンテンツとして製作された今作は神山健治監督だし、オリジナルキャストが続投だし、と公開前からかなり期待していた。率直な感想としては『続きは気になるけど……まぁ普通』と言った感じだ。

 序盤で描かれた経済が崩壊した世界を補填するためにそこらじゅうでドンパチをやっている「サスティナブル・ウォー」という設定も「メタルギアソリッド4」で既に見たし、物語のキーになるポストヒューマンの話も宙ぶらりんでクリフハンガーして終わっているので、続きを見ないことには何とも言えない。

 これなら、1シーズンは公安9課再結成の話で集中的に展開して、次シーズンでポストヒューマン回りの話になる方が良かった気もするが、それはそれで間延びする気がする。今作で一番好きな話は7話の「はじめての銀行強盗 」なので、ああいうゆるくて1話完結のような話がもっと欲しかった。

 公開前から賛否があった3DCGに関しては、見始めてすぐに馴染んだ。確かに顔はのっぺりした感じで、フォトリアルなCGが横行する現代では違和感が強いが、戦闘などのアクションシーンでの奥行き表現に幅が出るので、一概に否定することは出来ない。だが、この3DCGでの動きは利点だけでなく、強い違和感を産むのも事実だ。例えば、今作の新キャラのプリンが恥じらって体をクネクネする動きは2Dのアニメではあまり気にはならないだろう。ある種のアニメ的な記号的動きだからだ。しかし、これが人間がモーションキャプチャーした動きになると、強い違和感が生まれる。現実の女性はこんな動きはしないからだ。ただ、これはNetflixの3DCGアニメだけでなく、「FF7リメイク」をやった時にも感じたことなので、動きがリアルになればなるほど、アニメ的な動きは合わないのかもしれない(もしくは、単に女性の記号的なアニメ表現みたいなものを自分が嫌いなだけかもしれないが)。

 少佐のキャラデザインも過去作と比べて可愛らしくなっているが、逆に可愛くなり過ぎて、陰でゴリラ呼びされているのに非常に違和感がある。全然ゴリラに見えない。そんなにゴリラ扱いするなら、もう少し強そうなデザインでも良かったのではないかと思う。

 部屋のモデリングも気になった。屋外や広い室内のシーンではあまり気にならないが、一軒家やマンションのシーンになると、まるでドラマのセットみたいな整頓ぶりと無機質感がすごい気になる。物とかを足したり、散らかしたりするとコストが嵩むのだろうけど。

 続きは気になるし、タチコマは可愛いし、次のシーズンもきっと見るのだろうけど、すごい楽しみにしているかと言えば、そうでもないという何とも言えない感じだ。